もののけ姫【評価:74点】

もののけ姫

あらすじ・概要

宮崎が構想16年、制作に3年をかけた大作であり、興行収入193億円を記録し当時の日本映画の興行記録を塗り替えた。

映画のキャッチコピーは「生きろ。」で、コピーライターの糸井重里が考案した。主題歌「もののけ姫」(作詞 – 宮崎駿 / 作曲・編曲 – 久石譲)を歌う米良美一は、女性のような高い声で歌うカウンターテナーが話題になり、この作品によって広く認知されるようになった。声優は『平成狸合戦ぽんぽこ』のおキヨの石田ゆり子、『紅の豚』のマンマユート・ボスの上條恒彦、『風の谷のナウシカ』のナウシカの島本須美とアスベルの松田洋治といった過去のジブリ作品にも出演した者が起用されている。
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中世(室町時代の頃)の日本。東と北の間にあると言われるエミシの村に住む少年アシタカは、村を襲ったタタリ神と呼ばれる化け物を退治したが、右腕に死の呪いを受けてしまう。その正体は、何者かに鉄のつぶてを撃ち込まれ、人への憎しみからタタリ神と化した巨大なイノシシの神(ナゴの守)だった。アシタカは呪いのため村を追われ[3]、呪いを絶つためにもイノシシが来た西の地へと旅立つ。

旅の道中、乱妨取りに奔る地侍との戦いや、謎の男ジコ坊との出会いを経て、アシタカはジコ坊から聞いた神が住むという深い森がある地に向かう。アシタカは山奥で倒れていた男達を助け、彼らの村へ連れて帰る。その村はタタラ場と呼ばれる、鉄を作る村であるという。そこを治めているエボシという女は、石火矢と呼ばれる火砲を村人に作らせ、山に住む”もののけ”や、村の鉄を狙う地侍たちから村を守っていた。アシタカが助けた男達も”もののけ”に襲われたもので、呪いを与えたイノシシの神に鉄のつぶてを撃ち込んだのもエボシだという。彼等は鉄を作るために自然を破壊している自覚はあったが、シシ神に力を賜り大きな力を得た動物、即ち”もののけ”達を快く思っていなかった。アシタカは、これ以上憎しみを広めるなとエボシに忠告するが、村人達にとってのエボシは、生きる希望を与えてくれる女性でもあった。
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監督が言う「我々が直面している最大の課題」は、主人公アシタカの設定に集約されているという。今この世の中に生きている若者は、いわれのない、不条理な、肉体的にも精神的な意味も含めてババを引いてしまった人間達である。それは東アジア、アメリカやヨーロッパ、アフリカでも共通の運命である。その理由は、一人の人間が感じられる悲劇が、ローマ時代であろうと鎌倉時代であろうと同じ故である。人口が五百万人しかいなかった鎌倉時代の日本は、現代から見れば山紫水明、遥かに美しい所が多数存在したが、人間が悲惨の極みであったため、鎌倉仏教のような宗教が生まれてきた。破局の規模が大きいから悲劇が大きいというのは嘘で、一つの村が滅びることが、その人間にとっては全世界が滅びることに等しい、そういう意味を持った時代がある。その意味では人間が感じられる絶望も、その苦痛も量は等しい。恐らくそれは、歴史の様々な場所で感じ取られてきた。「ただ何となくスケールが大きいからね、こりゃ本当のドン詰まりと思っているだけで。でもそれが本当にドン詰まりなのかというと、そうは簡単に行かないことも、歴史は証明してるから」。

タイトル もののけ姫
製作 1997年
原題 もののけ姫
製作国 日本
上映時間 135分
ジャンル ファミリー/アニメ
監督 宮崎駿
脚本 宮崎駿
出演者 松田洋治
石田ゆり子
田中裕子
小林薫
美輪明宏

受賞 日本アカデミー賞1998年21回:最優秀作品賞

評価

74点

レビュー

不条理を背負って生まれ来た若い世代に

もののけ姫の脚本はゴールを決めずに絵コンテのみで描き進める方法を取ったそうだ。
そう。物語を組み立てるのを止め本人のイマジネーションという本能のまま書き綴ったということだ。それは「生きろ」というキャッチコピーの通り彼なりの人生の模索が垣間見れる。

事実そうだ。
人生は計画(脚本)通りに進まないものだ。
好きな人と付き合えたり付き合えなかったり。
志望校に合格したりしなかったり。
本命企業に就職できたりできなかったり。
不慮の事故が起こったり。
何度挫折してきただろう?何度涙を流しただろう?そして何度笑っただろう?

そこに脚本はないのだ。その時その人にあった選択があり挫折と後悔と成功が繰り返されてきたのだ。

人間側を「エボシ」自然側を「もののけ」その橋渡しとして「アシタカ」

大きく分けるとこの3つの柱をメタファーとしてこの作品を語っている。
エボシ側は悪なのであろうか?生きるために「守る」エボシの意思がそこにあり
もののけ側は自分たちの住処を「守る」ための意思がそこにある。
お互いに守るものがあるから守るために闘う。それは間違っているのだろうか?
そう。お互いに守るものがある以上相いれぬ関係なのだ。
それぞれの生きるモノたちの立場から言葉が重く鋭く響く。

そして宮崎ははっきりと答えている「両者は相容れない」と。
これはナウシカの「自然との共存と和解」という答えとは全く違った回答となっている。

そこに今までの作品にあったジブリの優等生的な勧善懲悪はない。

あなたの人生は善だろうか?悪だろうか?そこに明確な住み分けはあるのだろうか?

悪であろうが善であろうがそれでもなお人間は、動物は、植物はこの世の生命のあるものは「生きる」のだ。
そこに全員がハッピーなんて都合の良いことはない。

共に生きようなんてただの人間のエゴでしかない。
じゃあ人間側が死ぬか?否。

見る側からすると「結局どっちだよ?」「説明不足だ」と不満に思えるかもしれない。
ただその答えを他者に任せて良いのだろうか?

戦争、環境破壊、病気、殺人、貧困、飢餓…
この世は不条理で溢れている。

アシタカもまた呪いという「不条理」を背負ったように。
宮崎はその答えを託す。「不条理」を背負って生まれて来た若い世代に。

人生は「生きる」上で不条理だ。

だが「生きろ。そなたは美しい」

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